市川駅北エリア>市川 芸妓ものがたり

 大正の頃まで、市川はリゾート地でした。江戸川はスイミングスポットで、東京から川遊びに旅行客がやってきていました。そして、桃林が名物でした。
AIでカラー化

『写真で見る わがまち市川』(郷土出版社)より

 
 国府台と真間では花街が形成されていました。
 芸妓(芸者)とは、女性の専門職で自営業。宴席で唄や日本舞踊などの芸能で客を接待する仕事をします。明治から大正にかけては、芸妓は今のアイドルのような存在だったようです。写真が絵葉書に使われて、よく売れたのだとか。
 時代の流れとともに、芸妓という生業が成り立たなくなったということ。芸妓がいなくなれば、花街も消えます。
『目で見る市川の100年』(郷土出版社)より


 2021年には、JR市川駅の北側にあった料亭「白藤」が閉業し、建物が解体されました。
 花街の名残は、時代とともに消えていくのでしょう。

市川 芸妓ものがたり


1884(明治17)年 国府台に陸軍教導団(明治期の陸軍の下士官を養成する機関)ができ、その後、旅団司令部、野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊などが駐屯

近隣にある根本などの商店が栄え、軍人を接待するような料亭などもできて、花街ができた

1914~1918(大正3~7)年 第一次世界大戦

一気に景気がよくなり、成金が生まれた

1921(大正10)年 国府台に市川三業組合(国府台三業組合)ができる

1922~23(大正11~12)年頃 今の里見公園の場所に、里見八景園が開園

里見八景園の事業の一環で、江戸川べりに、川魚(鯉や鰻など)料理を提供する割烹旅館鴻月(こうげつ)が開業

1927(昭和2)年 市川真間に真間組合ができる

1933年(昭和8年)頃 里見八景園が閉園

1941~45(昭和16~20)年 太平洋戦争

市川の特産品だった梨や桃の木は切られ麦やジャガイモが植えられた。また明治三十五年から栽培され、東京市場の一割以上を占めていた市川のイチゴ畑は水田となり、市川の果物は完全に中断されていた
『写真で見る わがまち市川』


1947~1949(昭和22~24) 深刻な食糧難のため、飲食営業を禁止する「飲食営業緊急措置令」がGHQによって施行

1952年(昭和27年)頃 市川二業芸能部が「市川音頭」を作詞

1976(昭和51)年 割烹旅館鴻月が閉業
『目で見る市川の100年』(郷土出版社)より


1986(昭和60)年 浮島弁財天の境内に、名妓の碑が建立、式典に約20名の芸妓が参列

名妓の碑

2021(令和3)年 料亭白藤が閉業

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